▶横須賀市歌のすばらしさを探る(3)作曲家 團 伊玖磨について

(撮影 高23期 石渡 明美)

第三回目は、横須賀市歌を作曲した、作曲家 團 伊玖磨について解説します。(高11期 山田茂雄)

(1)團 伊玖磨(だん いくま)
1924年4月7日 – 2001年5月17日。日本の作曲家、エッセイスト。日本を代表するクラシック音楽の作曲家の一人です。作曲家としてはオペラ、交響曲、歌曲などのいわゆるクラシック音楽のほか、童謡、映画音楽、放送音楽と幅広いジャンルを手がけています。

(2)略歴
・1924年(大正13年)実業家、学者、政治家であった男爵・團伊能の子として、東京・四谷の慶應病院で生まれ、原宿(現在の渋谷区神宮前)で育ちました。
・1931年(昭和6年)7歳で青山師範学校附属小学校に入学し、ピアノを学び始めた。翌年3月、祖父・團琢磨が暗殺された(血盟団事件)ことで、幼心に、物質的な栄達への疑問を抱くようになり、後に芸術を志す動機のひとつとなった。当時、團という一字姓のため、しばしば「朝鮮人」「シナ人」と怒鳴られたという(事実、700年前の祖先の團将監は宋人だったと伝えられています。)
・1937年(昭和12年)13歳の際に青山学院中学部に入学。また、同年には東京市麻布区材木町(現在の港区六本木)に転居しました。
・1942年(昭和17年)に東京音楽学校(現在の東京藝術大学)作曲部に入学した。学校では下総皖一に和声学と対位法、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、細川碧に楽式論を学びました。また、学外では山田耕筰に指導を受けました。
・1944年(昭和19年)20歳で音楽学校に在籍のまま陸軍戸山学校軍楽隊に入隊しました。軍楽隊ではバスドラムを担当し、芥川也寸志とともに編曲も担当しました。翌年には復員して東京音楽学校を卒業し、諸井三郎に対位法、楽曲分析を学びました。歌曲集『六つの子供の歌』、管弦楽付き独唱曲二つの抒情詩『村の歌』『小諸なる古城のほとり』を作曲しました。

(3)逸話
(a)伊玖磨氏が12歳の時、作曲を志す息子の将来を案じた父伊能が伊玖磨を伴い山田耕筰を訪れ、耕筰に作曲の道が険しいことを説いてもらって断念させようとした。ところが、耕筰は、「やり給え、そして、やるからには、最も正統的な勉強を積んで、最も本格的にやり給え」と激励した[6]。このことで、伊玖磨は作曲の道で生きていく決意を固めたと言われています。また、生涯耕筰を師と仰ぐことになりました。

(b)商業主義に伴う宣伝を激しく嫌っていた。特にダイレクトメールは新字体による「団伊玖磨」の宛名書きで来る場合が多く、この表記による郵便物を(ダイレクトメールに限らず)一切開封せず捨てていたと言います。また、後年「僕の名前は團であって団では無いのだから、他人宛の手紙は読んでは悪かろうと遠慮するからである」と捨てる理由を説明しています。

(c)たびたび訪中したが、團という字に中国語で卑猥な意味があるため、北京では「檀か段に直してください。團では困る」「あなたの名刺は、女の人には見せられません」と言われたそうです。中国で野間宏の『真空地帯』が映画化された際にも、「音楽 段伊玖磨」と直されと言われています。

(d)先天色覚異常を持っており、小学生の頃に写生の時間に赤い花を緑に描いて教師から激しく叱責されたことがあると言う。また東京音楽学校の入試に際して、担当の校医が美術学校の入試をも受け持っていたため、色覚異常の故に危うく落とされそうになったが、團の懇願で入学が許されたこともあると言う。色覚異常者への差別に憤り、日本色盲協会の結成を考えたとも述べています。

(e)大のイヌ嫌いであり、無駄に吠えるイヌには、それがたとえ友人の飼い犬でも容赦せず体罰を加えたと言います。タロとジロを題材としたラジオドラマの音楽の仕事を断った旨を『パイプのけむり』で言及しています。好きな動物はヘビで、自宅で飼育していた大蛇が息子の喉に咬みついて大怪我をさせたこともあると言います。

(f)戦後まもなく、太宰治の作品を愛読していたため、友人の北山冬一郎(詩人)の紹介で太宰に会う話が持ち上がった。しかし、ダンという苗字から檀一雄を連想した太宰が「ダンという名前なら大酒飲みだろう」と言ったところ、北山が「いや、実は一滴も飲めないんです」と答えたため、太宰が「酒も飲めない奴なんかに用はない」と断ったと言う。そのため、とうとう太宰に会うことができなかったと言われています。

(g)エッセイ「パイプのけむり」は1964年に『アサヒグラフ』で連載を始め、2000年に同誌が休刊するまで連載を続けていた。最終回では「自分が死ぬのが先か雑誌が休刊するのが先か」どっちなのだろうと予想していたと書いています。結局、雑誌休刊の翌年死去することになりました。

(h)團は生前九州を愛したのだが、それは父が福岡の民放KBCの会長を務め、妹がブリヂストンの創業者一族に嫁いだこととも関係します。実はどちらも久留米市で産声を上げた企業であり、そのことが『筑後川』作曲につながっていったとも考えられます。

(i)2007年1月20日、團死亡の地・蘇州で、七回忌記念『筑後川』コンサートが開かれ、日本から行ったアマチュア合唱団員200人が、『筑後川』を歌い上げました。

(j)愛煙家で、パイプを好んだ。1950年代、イギリスに留学していた團は、英語の勉強のために、当時ベストセラーだった「野生のエルザ」をはじめ、いくつかの書物の翻訳をしていました。その中には、パイプの修理に立ち寄ったダンヒル本店で見つけた、アルフレッド・H・ダンヒルの“The gentle art of smoking”(日本語タイトル「ダンヒルたばこ紳士」)があると言う。

(k)小説も著したことがある。「日向村物語」は映画「馬鹿が戦車でやって来る」などの「馬鹿シリーズ」の原案となり、この作品では團自身が原作者としてクレジットされる他にも劇伴音楽を担当しています。

(l)オペラ「聴耳頭巾」の自筆総譜は、一旦紛失したが、1978年2月に発見されました。総譜の書かれた五線紙は、山田耕筰のネーム入りで、晩年の山田から團が譲り受けたものであったと言われています。

(m)1992年5月4日に関勉が発見した小惑星17509番は、発見者によって「Ikumadan」と命名されています。

(n)北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美(毎日放送の音楽ディレクター、訳書「バーンスタイン物語」)が鎌倉市に移住して、すぐ近所に住んでいた團に「美  幌農業高校校歌」作曲を依頼しました。その後、團は、東京で病に苦しんでいた武満徹(1953年「美幌町町歌」作曲)に自宅を提供して横須賀市に移住しました。

(o)1963年に八丈島に仕事場を建て、しばしば作曲のために長期滞在したが、そこでの趣味は京野菜の栽培をし、テレビでのインタビューでは「京野菜が栽培できる南限を探っている」と応えたと言う。

(4)家族
祖父の團琢磨は三井合名会社理事長、男爵[13]。父の團伊能も男爵であり、東京帝国大学文学部美術史学科助教授、参議院議員、プリンス自動車工業(現日産自動車)社長、九州朝日放送会長を歴任。母の美智子は宮内省大膳頭を務めた上野季三郎の五女。妹の朗子はブリヂストンタイヤ(現ブリヂストン)会長石橋幹一郎に嫁いだ(元内閣総理大臣の鳩山一郎・鳩山由紀夫も遠縁の親戚となった)。

最初の妻、桑原瑛子(ソプラノ歌手)との間に生まれた長男團名保紀は西洋美術史家で群馬大学教授。二番目の妻、藤枝和子(ピアニスト)との間に生まれた二男、團紀彦は建築家。

叔父の團勝磨はウニの発生研究を大成した発生学者で、元東京都立大学総長。孫の團遥香は女優・タレント。

(5)代表的な作品
詳細は「團伊玖磨の楽曲一覧」を参照
主要作品のみ。括弧内の人物は作詩者を示す。
(a)歌劇
「夕鶴」(2幕/作:木下順二)
「楊貴妃」(3幕5場/原作:大佛次郎)
「ちゃんちき」(2幕4場/脚本:水木洋子)
「建・TAKERU」(3幕/原作:古事記・日本書紀、脚本:團伊玖磨・小田健也)

(b)交響曲
・交響曲第1番 イ調 交響曲第2番 変ロ調 交響曲第3番 交響曲第4番 交響曲第5番
・交響曲第6番「HIROSHIMA」(エドマンド・チャールズ・ブランデン)
・交響曲第7番「邪宗門」(未完)
北原白秋の「邪宗門」をテキストに用いて作曲を開始したが、2001年に作曲者が蘇州で急死したのに伴い未完に終わった。構想では2管編成で各楽章に声楽が入り、作曲者が存命中であれば2002年の秋に初演するはずであった。

(c)管弦楽
・交響詩「平和来」(後に「挽歌」と改名) 管弦楽組曲「シルクロード」
・交響組曲「アラビア紀行」 序曲「東京オリンピック」 管弦楽のための「祝典序曲」 
・管弦楽のための「夜」 交響幻想曲「万里長城」 管弦楽のための「飛天」

(d)室内楽曲
・弦楽合奏曲「合奏協奏曲」
・ヴァイオリンとピアノのためのファンタジア第1番
・ベルリン・シンフォニーの12人のセロのための「夜」
・12本のフルートのための「夕鶴」幻想曲
・2つのソロ・ヴァイオリンと弦楽合奏のための「古雅なるファンタジア」
・フルートとハープのための「羽衣」
・篠笛とチェロのための「夜の対話」
・ソロ・ヴァイオリンとカルテットのための2章「黒」と「黄」(遺作)

(e)歌曲
・六つの子供のうた(北原白秋)
・五つの断章(北原白秋)
・花の街(江間章子)
・ジャン・コクトーに依る八つの詩(堀口大學訳)
・マレー乙女の歌へる(イヴァン・ゴル;堀口大學訳)

(f)合唱曲
・混声合唱曲「岬の墓」(1963 堀田善衛)
・合唱組曲「風に生きる」(1957/64 石浜恒夫)
・混声合唱組曲「筑後川」(1968 丸山豊)
・混声合唱のための「ディヴェルティメント」(1968 谷川俊太郎)
・管弦楽と合唱のための「西海讃歌」(1969 藤浦洸)
・合唱と管弦楽のための「日本新頌」(1970 堀口大學)
・混声合唱組曲「海上の道」(1973 丸山豊)
・合唱と管弦楽のための交響詩「ながさき」(1974 江間章子)
・浄土宗「音楽法要連頌」(1974 藪田義雄)
・混声合唱と打楽器とピアノのための「原體剣舞連」(1975 宮沢賢治)
・混声合唱「西海ラプソディー」(1977 堀口大學)
・合唱と管弦楽のための「北九州」(1977 栗原一登、一般的に「合唱組曲『北九州』」と呼ばれることが多い)
・混声合唱組曲「大阿蘇」(1978 丸山豊)
・合唱と管弦楽のための「横須賀」(1982 栗原一登)
・合唱と管弦楽のための「唐津」(1982 栗原一登)
・独唱、混声合唱、オーボエ、ピアノのための組曲「木曽路」(1983 辻井喬)
・混声合唱組曲「玄海」(1984 丸山豊)
・独唱・混声合唱・フルート・ピアノのための組曲「長崎街道」(1986 辻井喬)
・合唱と管弦楽のための「東洋大学創立百年記念楽曲“讃えんかな東洋大学”」(1987 栗原一登)
・混声合唱組曲「筑後風土記」(1989 栗原一登)
・合唱と吹奏楽のための「東京歯科大学創立百周年記念讃歌“築かん明日を”」(1990 栗原一登)
・混声合唱組曲「川のほとりで」(1990 江間章子)

(g)吹奏楽
・ブリヂストン・マーチ(1955)
・祝典行進曲(1959)皇太子明仁親王 正田美智子 成婚記念
・オリンピック序曲(1964) キスカ・マーチ~東宝映画「太平洋奇跡の作戦 キスカ」より(1965)行進曲「青年」~東宝映画「戦場にながれる歌」より(1965)
・JASDF March <航空自衛隊行進曲>(1968)若楠国体行進曲[序曲付き]~第31回国民体育大会佐賀県実行委員会制定(1974)行進曲「伸び行く佐賀」(1974)
・行進曲「べっぷ」~別大毎日マラソン25回記念 <マラソン行進曲>(1976)
・行進曲「京都府の歌」(1984)行進曲「マツダ」(1984)行進曲「希望」~全日本吹奏楽連盟創立50周年記念曲(1987)パシフィック・・フリート <太平洋艦隊>(1988)
・福岡国体行進曲(1990)
・新・祝典行進曲(1993)皇太子徳仁親王 小和田雅子 成婚記念
・組曲「わが街に」より“前奏曲”(1994)機動隊行進曲「希望のあしおと」(1998)
・March Tanabata(2000)March “YOKOSUKA”

(h)映画音楽・放送音楽
・ラジオ体操第2(3代目)(NHK)大仏開眼(衣笠貞之助監督)夫婦善哉(豊田四郎監督)
・雪国(豊田四郎監督)ここに泉あり(今井正監督)潜水艦イ-57降伏せず(松林宗恵監督)
・ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(松林宗恵監督)太平洋の翼(松林宗恵監督)
・世界大戦争(松林宗恵監督)太平洋奇跡の作戦 キスカ(丸山誠治監督)
・馬鹿が戦車でやって来る(原作および音楽、山田洋次監督)

(i)童謡
・おつかいありさん(関根栄一)
・ぞうさん(まど・みちお)
・やぎさんゆうびん(まど・みちお)
・カタツムリ(文部省唱歌)

(j)校歌・学歌その他(神奈川県)
・横須賀市歌(1967)
・葉山町町歌(1980)
・平塚市歌(1952)
・横須賀市立馬堀小学校校歌 堀口大學詞
・横須賀市立大楠小学校校歌 堀口大學詞
・横須賀市立野比小学校校歌 江間章子詞
・三浦郡葉山町立葉山小学校校歌 堀口大學詞 ほか6校
・逗子市立沼間中学校 ほか6校
・横須賀高等学校
・県立大楠高等学校(詞=團)、七里ヶ浜高等学校、逗子高等学校、津久井浜高等学校、藤沢西高等学校、横須賀大津高等学校(詞=團)ほか4校
・堀口大學詞 團伊玖磨作曲 全国小学校6(新潟県が多い)中学校6、高等学校新潟4 富山2

(k)著作
・エスカルゴの歌
・パイプのけむり(シリーズ、全27巻)
・好きな歌・嫌いな歌
・私の日本音楽史
・翻訳書 ダンヒルたばこ紳士(The Gentle Art of Smoking) アルフレッド・H・ダンヒル著 日向村物語

(l)その他
女優団令子の芸名は、東宝の藤本真澄が團伊玖磨の苗字から採って命名した。藤本が「ンで終わる苗字は当たる。どんな苗字にしようか」と考えている時、たまたま團が入室してきたことによるという。
加山雄三が作曲をする時のペンネームである弾厚作は、團伊玖磨と山田耕筰に由来しています。

(6)作品の特徴
(a)作品は,美しい抒情性,緻密かつ雄弁で色彩的なオーケストラ語法,壮大な風格といった特徴をもち,『ひかりごけ』(1972,芸術選奨文部大臣賞),『建・TAKERU』(1997)など、民族的な題材に基づく 7曲の歌劇,6曲の交響曲,歌曲,室内楽,劇音楽,映画音楽,混声合唱組曲『岬の墓』(1963,芸術祭賞文部大臣賞)など、上記に示したように幅広い作品を残しました。そのほか,ラジオ歌謡「花の街」,混声合唱組曲「筑後川」,童謡「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」など,今日まで広い世代に親しまれる歌も残しています。
また、彼は随筆家としての顔ももち,30年以上にわたって雑誌連載したエッセイ「パイプのけむり」は,多くのファンに愛されました。

(b)戦後の作曲界をけん引した一人であり、皇室の記念的な行事にも楽曲を提供しています。

(c)團伊玖磨氏は、三浦半島には豊かな自然と可能性を秘めた人達が多い。東京や横浜と違った「海の香り」の新しい街おこしをすべきだ。休日には街に誇りをもち、自らが文化の担い手であることを自覚できる新世紀の街づくりを目指そう。と語り、市民の手で音楽を創り上げることを薦め、そして実現できることを誇りにしていました。

このことは、昭和57年「文化元年」を宣言し制作された、合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」(1982 栗原一登)で実証されました。合唱は「横須賀市合唱団体連絡協議会合唱団」、管弦楽は「横須賀市交響楽団」で、初演の演奏から毎年継続され今年35回目を迎えています。この組曲「横須賀」の演奏は、管弦楽・合唱共に高い演奏技術を要するが「市民の交響楽団が演奏を受け持つという高い音楽的水準が横須賀にあること、このような文化的な底力、潜在力を持っている街は他には無い」と初演時、團氏は話していました。

(7)横須賀市歌の楽曲分析・形式
(a)速度の表示はないが、「溌剌と、颯爽と」という言葉で示されている。
参考に速度標語で示せば、Allegretto やや快速に♩=108前後で歌えば「溌剌と、颯爽と」の感じが表現できます。

(b)表現する場合、1番から5番までの歌詞の内容が明確なので、その思いを込めて歌うことが大切です。特に、後半B’(前向きに 前向きに~)から、軽快なリズムを生かし最後(太陽の前に生きたり)を力強く歌うことが大切です。

(c)斉唱で歌うことは基本ですが、混声四部合唱+オブリガート三部合唱、計七部合唱で歌うことができます。横須賀市合唱団体連絡協議会が歌う場合には、常に、混声四部合唱バージョンで歌うことを心がけています。

ピアノ前奏・・・8小節 形式

1.白波は 白波は 岬にくだけ・・・4小節 A(8小節)
光る風 光る風 台地にあそぶ・・・4小節

半島の 半島の 只中占めて・・・4小節 b B(9小節)
溌剌と わが横須賀は・・・9小節 c
太陽の前に生きたり

前向きに 前向きに 明日を行く手に・・・4小節 d B’(9小節)
溌剌と わが横須賀は・・・9小節 c’
太陽の前に生きたり

A(8小節)+ B(9小節)+ B’(9小節)の3部形式

▶横須賀市歌のすばらしさを探る(1)横須賀市歌の概要

▶横須賀市歌のすばらしさを探る(3)作曲家 團 伊玖磨について” に対して2件のコメントがあります。

  1. 石渡 明美 より:

    團伊玖磨先生は才能豊かで本当に素晴らしい方ですね。
    一度だけですが、組曲横須賀の練習の時、指揮をしていただいて感激しました。
    指揮をされる姿も素敵でとてもおしゃれな紳士でしたね。

    1. 廣瀬隆夫 より:

      團伊玖磨先生は、歴史上の人だと思っていましたが、実際に指揮をしていただいたことがあったんですね。この記事からも魅力的な方だとわかりますね。「パイプのけむり」は、ぜひ拝読さていただきたいと思います。

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